KOBE ART MARCHE

Interview 18 / 野口琢郎

TAKASHI KURIBAYASHI meets KOBE ART MARCHETAKASHI KURIBAYASHI meets KOBE ART MARCHE

西陣の織物に織り込まれる金属をうすく叩きのばしてできる『箔(はく)』。漆を塗った下地に箔を貼り付けることを『箔押し』といい、安土桃山時代より続く西陣織の伝統的工芸技術だ。アーティストの野口琢郎さんは、ご実家の家業である箔屋の技法を用いて、絵画表現に新しい可能性を見出した。学生時代に体得した油絵表現の画法と家業の技法の融合、そこから『箔画』は誕生したという。箔画作家として活躍している野口さんを訪ね、アーティストになるまでの歩みをお聞きした。

Photo: Shingo Mitsui  Text: Shingo Mitsui / Yuki Teshiba

伝統技術で挑む新しいアート

京都にある千両ヶ辻は西陣織の商家が立ち並ぶエリア。ベンガラ格子が特徴的な京町屋の中に、130年以上続く野口さんのご実家、金糸・平金糸製造の老舗「箔屋野口」はある。漆を塗った三椏紙(みつまたがみ)と呼ばれる丈夫な和紙に箔を貼り、細かく裁断して出来上がる『平金糸』。ヨコ糸として生地に織り込むための素材を『引箔(ひきはく)』といい、野口さんの家はこの引箔の地作りを営んできた。父親であり、4代目当主である康さんの仕事をする姿を見て野口さんは育った。
生まれも育ちもここで、父親が働く姿をいつも間近で見ていました。かっこいいなと思っていましたし、小学校の時から「家業を継ぐ」と言っていたんです。上に兄貴がいたんですけど、兄貴は東京の大学に進学し、卒業後も東京で仕事に就いたので、5代目の資格が末っ子のぼくに回ってきました。20代の頃でしたが、当時は西陣織が後継者が減り、経営面でもどん底の時期でした。もし西陣織の仕事が潤っていたら、今画家をしていないかもしれないです。
そこからどのようにしてアーティストになろうと思ったのでしょうか。
大学を卒業して、家業を継ぐため西陣織の織屋(おりや)さんに3年間勤めさせて頂きました。ただ、「家業を継がなければ」という義務感の方が強く、なかなか仕事に興味が持てなかったんです。その後1年間長崎に住み、京都に帰り家業の修行をしながら作品制作も始めた頃、芸能プロダクションが主催する若手芸術家発掘のコンペディション『アミューズ・アーティスト・オーディションin京都』の情報を知りました。優勝賞金が500万円だったので宝くじ気分で応募したら、優勝することができたんです。といっても、優勝者が急遽5人になったので、賞金は100万円になりましたけどね(笑)
優勝して何か変わりましたか。
優勝は自信にはなりましたけど、あまり生活は変わりませんでした。ただ「西陣の未来に光が見えなかったので、まだ絵描きの方が可能性があるかもしれない」と思えたので、今の作家活動にはつながりました。結局、家業は継がなかったのですが、技術は受け継ぎ、実家でアート制作することで家を守っている。そんな風に思っています。

コンセプトの羅針盤

子どもの頃から絵を描くことが好きで、京都市立銅駝(どうだ)美術工芸高等学校(以下、銅駝高校)を卒業後、京都造形芸術大学の油絵学科に進学。ずっと絵に打ち込む日々を送ってきた野口さん。どんな子ども時代を過ごしたのだろうか。
子どもの頃は図書館で恐竜図鑑を見て描き写したり、家の庭の花などを描いたりしていました。中学に入るとヤンキー漫画が流行って周囲にもヤンキー風の学生が多くなり、普通科に行くなら自分の得意な絵が学べる銅駝高校に行こうと思いました。午前中は普通の勉強をして午後は実習といって制作の時間。周囲の中学から1人ずつぐらいしか来ないのでヤンキーもいない。だからすごく平和な高校生活が送れました(笑)。
その頃から絵を職業にしようと思っていたんですか。
漠然と画家になれたらいいなぐらいの気持ちはありました。でも、美術系の学校にずっといると自分の画力がわかってきます。ぼくの場合、絵を描いても写真を撮っても「ちょっと崩せばよくなるのに」という評価。受験用デッサンのクセできっちりやりすぎるんです。大学二回生の頃にはもう絵描きになろうとは思わなくなっていました。
絵を崩すことの難しさからでしょうか。
それもありますが、描いた絵にコンセプトを持たせるのが苦手だったんです。高校のときは静物画を描いていれば認めてもらえましたが、大学に進学したら「この絵のコンセプトは」と聞かれて混乱する日々。コンセプトがないと、これまでみたいに評価されない。学校でみんなで発表した絵を講評する合評でもボロクソでした。後付けでもコンセプトを言えればいいんですが、それも苦手でした。大学生活1年目で絵がイヤになってしまい、写真表現に転向します。卒業制作も写真作品でした。
一度、辞めて、また絵を描こうと思い直したきっかけを教えてください。
西陣の仕事を辞めるなら、自分にはこの技術で絵を描くしかないと思ったのが一番ですが、大学生の時、絵を描かなくなったことを母方の祖父が悲しんでいると聞いたんです。自動車の設計士だった祖父は、ぼくが美術をやっていることに喜んでいました。ある日肖像画を描いて欲しいと言われて、描いてあげるとその絵を買ってくれたんです。その後、祖父はほぼ目が見えなくなったんですが、ふたたびお願いされて静物画を描きました。目元まで絵を近づけて「きれいな水仙の花だね」と言うんですよ。自分の絵で感動してもらったと思うと涙が止まらなくて、絵を諦めていたことが申し訳なくなったんです。その後、祖父は亡くなってしまいましたが、応援してくれた祖父に喜んでもらいたいという思いがあったので、がんばれば何とかなると信じて、また絵に挑もうと思いました。

コンセプトの羅針盤

野口さんの作品は大きく2つに大別される。街を俯瞰するような『Landscape(ランドスケープ)』シリーズと海と空を描いたシリーズ。どちらも箔と漆からなる緻密な絵は、観る角度や光量によっていろんな顔を見せる。これらの作品はどのようにして生まれるのだろう。通った小学校や毎年大晦日に除夜の鐘をつきに行く神社など地元の町を案内してもらいながら、おうかがいした。
ランドスケープの方は4メートルぐらいの大きさのもので3か月以上掛かります。海と空のシリーズは、どんな海や空にするか構想さえ固まれば、漆を塗ったり下地処理を省くと、画面上の80%は2日ぐらいでできるんですよ。絵に塗った漆が完全に乾いてから数百個コツコツと入れて大体1週間ほど。ぼくは沖縄が好きで年に1回は行くんですけど、海を目に焼き付けておくんです。夕暮れ時とかとても綺麗なので。そこからイメージを膨らませて描いていきます。特定の海ではないんですが、海の作品を作るときはどうしても沖縄をイメージしますね。
箔画という表現はどこから生まれたんですか。
日本画でも洋画でもないから『箔画』と命名しました。美術作品を作っているつもりでも、工芸作品だという評価を受ける時もありましたが、ある時から工芸でも現代アートでも受け取り手の自由だと開き直りました。そこから現代アートのグループ展などに混ぜてもらって、徐々に美術作品として認知されるようになったので、よかったなと思っています。
箔画には独特な輝きがありますよね。
『室(むろ)』と呼ばれる湿度80%程に保ったビニールハウスみたいなところに漆を塗ったパネルを入れて漆が固まるのを待ちます。漆が固まったら、ヤスリがけをして、また塗ってを3回ぐらい繰り返すとツルツルの漆の綺麗な面ができるんです。それができたら漆を塗って漆の接着力で箔を貼っていくという工程です。漆で箔を接着することによって金箔の色は赤みが強い美しい色になり、下地の漆の光沢の違いや、盛り上げ方によっても輝き方が変わり、光源や観る角度によっても大きく変わります。
箔を使うことで何か良かった点などありましたか。
ぼくと同じように後継で西陣織の技術は継いだけど、もがいている若い職人さんたちの良い刺激にはなりたいと思っています。最近も個展を見に若い職人さんが来ました。そのときに、職人たちの集まりがあって、そこでぼくの話題になったという話を聞きました。自分で開拓して新たな分野でやることが刺激になっていると聞いてうれしかったです。

コンセプトの羅針盤

野口さんは、地元でサラリーマン生活を送った後、写真家の東松照明先生(以下、東松先生or東松さん)の事務所で住み込み助手として1年間共同生活を送ることになった。東松さんとは出会いは、子どもの頃に家族旅行をしたときまでさかのぼるという。
中学2年生のときにバリ島へ家族旅行に行ったんです。親父は日大芸術学部の写真学科出身でローライフレックスを持っていました。寺院で遊んでたら、親父と同じカメラの人がいて、親父に伝えて親子でその人を見に行くと、普段物怖じしない親父がなぜか萎縮していたんです。その人が東松先生でした。親父はそれ以来知り合いになって、「息子を使ってくれ」と言ったみたいなんですよね(笑)。
丁稚奉公的な感じですか。
まずは千葉にある東松先生の住まいに助手をさせてくださいとお願いしに行ったのですが、「助手はとらない主義だから養子になるならいい」と言われました。それで半年悩んで保留にしていると「今度長崎に遊びに来なさい」と誘われて、行ってみると急遽1週間お試し助手をすることになって、その結果、1年間限定で助手として居ていいことになったんです。
1年間の助手生活はどうでしたか。
主な仕事は撮影助手、荷物持ちと朝ごはんなどの料理支度、運転手などで、1年間なんでも屋さんでした。傍にいさせてもらって思ったのは、東松先生は日常会話のほとんどが写真の話なんです。あと、心筋梗塞などいろいろな持病もお持ちだったので、健康面の話、世界に通用する超一流とはどういうものか、その一面が少しわかったように思いました。

コンセプトの羅針盤

箔屋野口の2階が野口さんの作業スペース。描きさしの箔画や設計図(下絵)など必要な道具に囲まれ、1日十数時間この作業場で過ごす野口さん。主に1日の作業はこの場所で行われ、近所のマンションの部屋へ寝に帰るだけ。生活のリズムは変われど、子どもの頃からマンションと箔屋野口の行き来は変わっていないという。
子どもの頃は実家には仕事部屋しかなく、寝る部屋がなかったので、晩飯を食べて、母親と兄弟3人でマンションに寝に帰り、翌朝学校行って、またここに帰ってくるという暮らしでした。現在は休みの日はマンションで過ごして、平日こっち来て作業しています。プライベートと仕事を分けやすいですよね。
1日あたりの制作時間を教えてください。
日にもよりますが、本当に追い込んでいると生活が夜型にずれこんできます。昼過ぎに起きたり、夕方に起きたり。夕方に起きると晩御飯後の19時から朝7時ぐらいまで。あんまり追い込んでないときでも朝5時ぐらいに寝るのが普通ですね。昼前に起きて、お昼を食べてから制作という感じです。夜の方が集中できるんですよ。誰もいないし、静かだし、あとちょっとお腹空いているぐらいがはかどります。3食食べると眠くなってやる気がでなくなるので(笑)。
愛用している道具があれば教えてください。
ぼくは高校時代から油絵コースだったので、紙よりパネルやキャンバスの方が親しみがあります。パネルなら額装しないで飾れるし、彫ったり引っ掻いたり、パテで盛り上げたりもすることもできます。両側おもてうらに漆を塗れば、裏面の漆はカビ防止になっていて長い目でみれば耐久性が出ます。それと箔が付きすぎてもはや竹にみえないんですが、箔押しのピンセットも愛用してます。

コンセプトの羅針盤

取材当日、野口さんは前日まで参加していた台北のアートフェア『ART TAIPEI2016』から戻ってきたばかりだった。作家から見たアートフェアはどのように見えているのかお尋ねした。
たとえば自分一人で海外の個展をするとなれば輸送費だけでなくツテも必要で大変です。それがお世話になっているギャラリーさんのブースからアートフェアに出展させて頂くと、世界各国の方に見てもらえますし、今どんなものが旬なのか一度に分かります。同じアジアでも他の国は美術に興味がなくても来場されるんですよ。やっぱり美術を売る現場に子供のころから来ると美術を買う習慣ができます。日本の場合は、他の国に比べると美術を買う、買う場に行くという習慣がまだまだ根付いていないように感じます。いつか、もっと世界中のギャラリーが集まるようなアートフェアが日本にできれば嬉しいですね。
これからの目標はありますか。
馬鹿っぽいですが、世界の3大ノグチになりたいんです。野口英世、イサムノグチの2人に次ぐ野口琢郎になるぞと(笑)。それぐらいになれたら、もっと多くの人に作品を観て頂けるわけで、できるだけ諸外国のいろんなところで展示できればと思っています。
野口さんにとってアートとは何ですか。
アートは生きること、作ることは生きることだと思います。コツコツ細かい作業が苦にならない根気も必要で、これで生きていくという覚悟のことだと考えています。ぼくの場合は、たまたま素材が特殊で珍しがってもらえたんです。油絵や写真では勝負できたと思っていません。この箔画というもののおかげで、いろんな人とのお付き合いができたと思っています。
最後に、アーティストを目指す人にメッセージを一言。
「あきらめなきゃ夢は叶う」とは言えませんが、諦めなければ才能は着実に進化します。ぼくも今少し崩して描くことができるようになりました。あとは人付き合いを大切にしてください。いろんなところに顔を出しておくと、時間が経ってからでも繋がって活きることはよくあります。「死んでから評価される」という考え方は前時代的で、評価される人は今の時代は評価されると思います。SNSは大いに活用してください。

ARTIST PROFILE

野口琢郎さん

1975年生まれ。京都府出身。京都市立銅駝美術工芸高等学校(以下、銅駝高校)を卒業後、京都造形芸術大学洋画科卒業。2000年に1年間限定で東松照明の助手に就く。その後、木パネルに京都西陣の箔屋に伝わる伝統的な制作技法を取り入れた『箔画』というジャンルを確立。『ART SANTA FE』 、『KIAF』、『SINGAPORE ART FAIR』、『ART TAIPEI』、『ART OSAKA』など国内外のアートフェアに出品。2016年1月にはロームシアター京都の玄関口に4メートルの作品が常設展示。2017年に京都での個展が決定している。

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