KOBE ART MARCHE

Interview 12 / 中村政人

中村政人 meets KOBE ART MARCHE中村政人 meets KOBE ART MARCHE

現代美術家であり東京藝術大学の教授を務める中村政人さん。90年代前半からアーティスト活動を始め、2001年にはベニスビエンナーレの日本代表を勤めた。それ以降は「美術と社会」「美術と教育」との関わりをテーマにアートプロジェクトをスタートさせる。2010年6月、”アーティスト主導””民設民営”をコンセプトにしたアートセンター『アーツ千代田 3331』を立ち上げて話題を集めた。今年10月、中村さんの10年ぶりとなる個展『明るい絶望』がアーツ千代田 3331にて開催。自分たちの場所を自分たちでつくり、アート活動を表現する中村さんを訪ね、ご自身のアートへの向き合い方から、今回の個展について、お話をおうかがいした。

Photo: Shingo Mitsui  Text: Shingo Mitsui / Yuki Teshiba

原点

中村さんは東京藝術大学を卒業後、韓国へ留学した。帰国後、アルバイト時代の仲間だった現代美術家の村上隆氏など、同時代のアーティストやキュレーターと路上ゲリラでのアートプロジェクトなど精力的にアート活動に打ち込んだ。そのアーティストの資質は、秋田県大館市にある実家の製材所で養われたという。
うちの実家は秋田県で製材所を営んでいました。製材所の仕事は、山から丸太を仕入れてきて、丸太の皮をはいで、原木を加工するんです。親父やおじさんが帯ノコで丸太を切っているのを子どものときに「ダイナミックで面白いなあ」と見ていました。自然観や身体感覚、工場で一緒に働く協働性、経営していく経済性なども学びました。今思うと、その製材所で育ったことが、モノづくりや、何かに挑戦する姿勢を与えてくれたと思っています。
その頃の思い出深いエピソードはありますか?
おじさんがあるとき、丸太で刀を作ってくれたんです。普通の友だちは枝を刀に見立てて遊んでいたんですけど、ぼくのおじさんは帯ノコで丸太から鞘付きの刀を作ってくれました。あれは感動しました。原体験として、どういう技術や考えで人間が加工して自然のものと触れていくのか、モノづくりの最初の接点がそこにありました。アーティストとしての資質を与えてくれた時期です。

学生時代の思い

中村さんは東京藝術大学に通っていた。どんな学生生活を送っていたのだろうか。
芸大のときは現代美術というフィールドに対して挑戦するぞという志が人一倍強かったです。1960年代末に始まった石や木など”もの”を単体で、もしくは組み合わせて作品とする”もの派”の世代の人たちが団塊の世代でいて、その影響下にぼくらの先輩たちがいました。ぼくらの世代ぐらいからこれまでの美術運動に対するギャップを感じるんですけど、全世界的にいうと新表現主義、ニューペインティングが出てきたころで、日本でもそのブームに乗ろうという人たちがいっぱい出てきてました。宮島達男さんとか、関西の椿昇さんなど、いろんな人たちが中心になって”フジヤマゲイシャ”というグループショーを何年も継承していたんです。ぼくの世代にきて、ぼくが「辞めようよ」と口を出したんです。継承する気もないのに継承するのではなくて、表現は自由なものだという意識があったからです。
韓国にも留学されていますよね? なぜ韓国だったのでしょうか。
当時アートをやろうとする人はニューヨークやヨーロッパに行こうというのが一般的だった。その考えはぼくも持っていたんですが、流れを自分で作ろうとすると、ニューヨークに行った後の自分と韓国に行ってその後ニューヨークに行った場合、ひとつアジアのエネルギーが入ってくるじゃないですか。つまり因果律、因果関係が変化するわけです。変化するということに対して自分をさらけ出すことによって自分を成長させたい。そんな思いがありました。

アーツ千代田 3331が生まれた理由

2010年、中村さんはアーツ千代田 3331を立ち上げる。アーツ千代田 3331は、旧練成中学校を再利用する形で誕生した。アートギャラリーやカフェなどが併設されているほか、ワークショップなどのイベントなど文化的活動の拠点として利用されているアートセンターだ。中村さんは個展の準備の最中だった。スタッフたちといっしょになって中村さん自身、自らの手で壁を建て、会場の導線から設営までをこなす。「自分たちの場所は自分たちで作る」というコンセプトがアーツ千代田 3331の設立にあった。
ぼくの場合は町のさまざまなアート以外の具体的なものとぶつかっていった。町の中でアートを志して、美術作品の展示空間である「ホワイトキューブ」のないところで美術を考えていった結果、ホワイトキューブを含む構築物を作らないとアートとして成立しませんでした。アーツ千代田 3331自体が作品であり、ぼくのひとつの集大成なんです。ここから全く新しい形のコミュニティーアートが生まれると思っています。
ホワイトキューブの中で今回展示をするのはどんな意味があるのでしょうか?
村上隆らといっしょに銀座という貸画廊の多い土地で路上で作品を発表したりパフォーマンスする『ギンブラート』だったり、同世代のアーティストと路上でゲリラ的な自主企画展をたくさんしてきました。これまで自分たちの場所は自分たちで作ってきたんです。今回の個展もホワイトキューブの中で作品を発表しますが、美術館というスペースを自分たちで作って、その中のホワイトキューブでやる2重構造にこの個展の意味があるんです。

極限からの復活  -アートの力

10年ぶりに開催される個展『明るい絶望』の会場に入ると、圧倒的な枚数の写真が出迎えてくれる。奥の部屋には自動車の製造技術を使った作品、見覚えのある木彫り民芸品をモチーフにした作品が展示してあった。『明るい絶望』というタイトルはどこから来たのだろうか。
僕自身が”絶望”という言葉を何回かプロジェクトの中に使っているんです。“Zプロジェクト”というものだったり。そのZは絶望のZなんですけど、その頃に”R不動産”とか”リノベ”とか、Rという字が一般化したじゃないですか? その中でリサイクルできるような状態を越えて、もっと厳しくなった極限の状態、A~E、Zまでいくと、この先はないところ。絶望という一見マイナスイメージの強い、深い状態。”アート”という言葉はそういうところから強く立ち上がるイメージを持っていて”絶望”という言葉を使いました。
どのような作品を出展されたのですか?
今回の作品は視点を大事にしています。見ている視点を物にしているというか、視線の質量みたいなものをバラ板の印画紙に焼き付けることでちゃんと記憶をしっかり記述していく思いで作りました。あと、90年代に考えていたプランで2つ。ひとつは自動車の技術を使ったもの。もうひとつは民芸品の人形の作品です。自動車は、毎日車を視ているという実感に気づいた時、民芸品の作品は実家の飾り棚にあった人形たちが一つ一つ多様で、人間的な存在感を持っているとうことに気づいた時に思いつきました。

Here comes for white cube

10月吉日、明るい絶望のオープニングパーティーが千代田アーツ3331で開催された。会場には関係者やファンなど多くの方が来場し、前日から徹夜で会場の準備をしていたという中村さんも熱気溢れる中、スピーチをしていたのが印象深かった。(以下、中村さんのスピーチの一部抜粋)
10年間、個展もやらずに何をしていたかというと、3331を立ち上げるようなことをやっていました。いわゆるホワイトキューブの中で通用する作品を作ることと、ホワイトキューブそのものを作る、またはホワイトキューブの外側から作品を作るということを『ギンブラアート』以降チャレンジしてきたわけです。街の中で経済的に自立できる活動をし、補助金や助成金がなくても運営できる体制をつくり、ここに入って来たスタッフ全員が、それぞれの人生の中でステップアップになる働き方ができるということを目指してきたんです。
この経験値を持ってほかの街、ほかのプロジェクトでも何かお役に立てることができるんじゃないかなとも思っています。が、しかし10年経ってくると手が衰えてき、目も見えなくなってきているんで『老人力』じゃないですけど、ゆるくなってきた感じでさらに、これまでの経験値を含めた作り方をしてみたいと、今またメラメラと燃えている感じです。

もっと広い世界へ

今の時代は中村さんから見てどう見えていますか?
選択肢が多くて非常に豊かだと思いますよ。豊かな感性で何かを表現しようとしたとき、発表する場所や支援するプログラムがあるギャラリーや美術館も増えているので、そういう意味で非常に選択肢が増えて、アートを始めようとするにはずいぶん作家に対するケアとかよくなっていると思います。
若いアーティストたちへのメッセージはありますか?
ぼくらのときになかった美術の動きとしては、美術というコンテキストを美術と思わない人たちがいるということ。ぼくたちは「美術なんだよ」と思っているんだけど、ぜんぜん美術と思わない自由な発想の人たちが出てきたんです。美術だけではなく、デザインでも建築でもファッションでも。ネットだろうがリアルだろうが自分の感性の中で拡張している現実感に対しては感度高くそれらを自由に行き来できる人たち。そういう人たちはどんどんインターナショナルになるべきだし、どんどん戦えるステージへ、狭い意味の”アート”ではなく広い意味での”アーツ”の中に可能性があるんじゃないかなと期待しています。

ARTIST PROFILE

中村政人さん

秋田県出身。アーティスト、東京藝術大学絵画科教授。「美術と社会」「美術と教育」との関わりをテーマにアートプロジェクトを展開。第49回ヴィネツィア・ビエンナーレ日本代表(2002年)。プロジェクトスペース「KANDADA」(2005-2009年)を経て、2010年6月、東京都神田に『アーツ千代田 3331』を立ち上げる。2010年に芸術選奨受賞、2011年より震災復興支援「わわプロジェクト」を始動。2015年10月、10年ぶりとなる個展 「明るい絶望」を開催。社会派アーティストとして世の中に影響を与え続けている。

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