KOBE ART MARCHE

Interview 17 / 栗林隆

TAKASHI KURIBAYASHI meets KOBE ART MARCHETAKASHI KURIBAYASHI meets KOBE ART MARCHE

あらゆるところに存在する境界。「好き」「嫌い」という感情にも国と国の間にも境界線は潜んでいる。そんな“境界”に着目し、数々の作品を制作している栗林隆さん。世界を舞台に活躍する現代アーティストのひとりだ。1993年、武蔵野美術大学(以下、武蔵美「ムサビ」)を卒業後、単身渡独。12年間、カッセル芸術大学、デュッセルドルフ美術アカデミーといったアートスクールで学び、精力的に作品を発表してきた。現在はインドネシアのジョグジャカルタの街を拠点に活動している。今年9月から自身の制作の傍ら、母校である武蔵美で客員教授に就任した栗林さんを訪ね、アーティストや作品、アート観などについておうかがいした。

Photo: Shingo Mitsui  Text: Shingo Mitsui / Yuki Teshiba

予言めいた作品

8月、武蔵美の大学内にある美術館では日本画学科卒業の現役アーティストによるグループ展『平面を超える絵画 インスタレーションと日本画的感性』(5月23日~8月21日まで)が開催されていた。栗林さんは、1万枚以上の海の写真を高さ5メートルほどにつなぎ合わせ、2枚の壁状に列べた『Water Wall』という作品を展示。大きさだけでなく、実際に海の中にいるかのような感覚を体験できる不思議な力を持っている作品だ。このWater Wallについて栗林さんにおうかがいした。
2011年の震災直後で、世間では陸にばかり目がいき、汚染水のことを誰も言ってなかった時代に作った作品です。ぼくはサーフィンなどマリンスポーツが趣味で、海や水について言及したかったんです。その水に対して手が届く距離、潜って4、5メートルぐらいの地点で写真を撮ろうと思ったことから着想しました。2012年Water Wallの展示会場だった熊本の他、長崎、広島、東京の海で潜って撮影したんですが、当時は被災した福島などでやらないと意味がないと思っていました。
再び展示しようと決めたきっかけを教えてください。
今年、熊本で地震があって、急遽オマージュや追悼を込めてこの作品を出品しようと決めました。実は今回の展示では、違う作品を出そうとしていたんです。終わった作品が時代の変化によって新たな意味を持って再び発表するきっかけを得たことが新鮮でした。
何がどうなるか分からないですね。
こういう体験は今回が初めてです。なんだか作品に突き動かされた気がしました。熊本はWater Wallの制作や展覧会をやったほか、僕にとって縁のない場所だったんです。今回の熊本地震で、「実は作品を作る意味があったんだ」「その時は意識してなかったのに将来的に予言めいた作品だったんだ」と、作品から教えてもらった気がしました。

コンセプトの羅針盤

栗林さんの作品は『インスタレーション』と呼ばれる、場所や空間全体を作品として体験させる現代美術表現にジャンル分けされ、スケールの大きいものが多い。これだけの作品をどのぐらいの制作日数で制作するのだろう。
Water Wallの場合は、準備段階を含めると実質作業は長くて2週間。短いと5日から1週間ぐらいです。ただ、ドローイングからの期間まで含めるともっと長いです。アイディアやコンセプトを詰めるのが大体1か月くらいかかる時もあるし、1日でひらめくこともあります。ただインスタレーションは、空間を作るので現場がすごく大事だったりします。
作品のアイデアはどこから湧いてくるのでしょうか。
僕はひとりでずっと考えごとしている時間が多いんです。その思索時間が妄想だけの時もあるし、作品のことを考えたりすることもあるし、それらが混ざり合ってアイデアになっていると思います。あとは常にアイデアをストックしておきます。でも結局、夏休みの宿題みたいにギリギリにならないと出てこないですね(笑)。
作品を制作する上で心掛けていることはありますか。
作品に対しては、一番最初の実物を作る前の段階がすべてだと思っているんです。アイディアからコンセプトを固めて、ドローイングして、どんなサイズでどういう素材を使うかということを、着手前に全部決めるんです。モノづくりは楽しいですから、楽しい方へと走って本来の意図から脱線しがち。だからこそ何を作りたいのか、はじめからクリアにしておく。それを指針にして制作することが僕の心掛けです。

出会いがつくる未来

栗林さんは、昆虫などの生物を撮影する写真家として活躍している父・栗林慧さんの背中を見て育った。自由に生きて、好きなことに取り組む姿に影響を受けたと回想する。幼い頃から絵は描くもののスポーツへの情熱には敵わず、高校時代まではずっと剣道三昧の日々。転機は高校3年生の時だった。父のような仕事に就きたいと、アーティストへの憧れが日に日に強くなっていったという。母校である武蔵美の校内を案内してもらいつつ、アスリートからアーティストへと移行していった頃の気持ちを教えてもらった。
元々絵を描いたりするのは嫌いじゃなかったんですが、アーティストになりたいとはっきり意識したのは、結構遅くて高校三年生の時でした。当時、剣道をやっていても将来は警察官か学校の先生しか選択肢が見つからなくて、自分でも迷いを感じていたんです。
アーティストになろうと思ったときにどうして日本画学科を専攻したのですか。
たまたま高校のとき相談した先生が日本画の先生だったのと、「武蔵美に行きなさい」と薦めてくれたのが日本画の予備校講師だったから。初めからこういう作家になりたい、アーティストになりたいというのは無かったんです。行く先々で助言してくれる人と出会って、彼らの影響を受けてアーティストになっていったというのが正直なところです。
武蔵美時代のことを教えてください。
大学時代は「アーティストになるぞ」と思っていました。その気持ちと実力に開きはありましたが、特に焦りはなかったんです。思春期の頃から、悔しい思いや羨ましいと思ったりすることはあっても、自分は一人しかいない、既にオリジナルとして完成されていると思っていました。また当時からそのオリジナルを磨けばアーティストの個性になるだろうと考えていました。

ボーダー--見えない線の発見

栗林さんは1993年武蔵美卒業後、単身ドイツへと留学。カッセル芸術大学で学び、デュッセルドルフ美術アカデミーに編入する。2002年には芸術大学の修士課程終了に当たるマイスターシューラーを取得した。なぜドイツに留学したのかお尋ねした。
海外に行きたいという思いがありました。当時、僕は絵を描いていて、ヨーロッパの画家たちが好きだったんです。僕が行った大学では好きな画家が教授をやっていたので興味がありました。あと他の国に留学する金銭的余裕がなかった。その点ドイツは学費がタダ同然で、学費の問題とタイミング良くカッセル芸術大学の先生が僕の作品を気に入ってくれて、交換留学で「まず1年来い」と言ってくれたんです。
留学時代で思い出に残っているエピソードを教えてください。
大学では毎年1回ギャラリーなど業界の人が青田買いに来る大きな展覧会があるんです。学生は展覧会のため良い展示スペースを奪い合います。学校側の展示許可が必要なんですが、最終的には学長がOKを出せばいいんです。ある時、制作している僕の背後にスキンヘッドに毛皮姿の強烈な学長が立っていて、直接展示スペースの交渉をしたら「よし、やれ」と自分が望んでいた場所での展示許可が出たんです。
展覧会での作品の評判はどうでしたか?
それがいろいろハプニングがあって(笑)。天井裏に水を張った作品だったんですが、オープニング30分前にようやく展示準備が間に合ってカフェで休憩していたんです。でも展示会場に戻ると、天井の水が漏れていて、ギャラリーに作品を紹介する時には、天井裏にパンツ姿で復旧作業していました。だから「アーティストはどこだ」と、アーティストとして気づかれていなかったみたいです。
境界のコンセプトはドイツの土地の歴史から着想を得たんですか。
いろんな国境と国境の間に、どこの国でもない空間みたいな場所があるじゃないですか。そこに興味がありました。もちろんドイツのベルリンの壁も。北朝鮮と韓国の軍事境界線(DMZ)はどこにも属していない空間が各所にあって不思議だったし、日本も国境は海なんだと気づきました。東京と田舎にも境界があると気づいて、コンクリートの素材と土を使って作品にしたりしていきました。

覚悟を持った活動を

栗林さんが自分をアーティストだと自覚したのは、40歳手前ぐらい。ようやくアーティスト生活が軌道に乗った頃だった。実際に自分が夢見ていた生活を送る栗林さんにとって、自身のアーティスト像はどう見えているのだろう。
誤解を恐れずに言えば、僕はそんなにモノづくりが好きではありません。その道では、実際に僕よりも才能や実力のある人はいっぱいいると思います。でも、その中でも僕の場合は、自分が表現したいものにインスタレーションが偶然フィットしているように感じたんです。
アーティストにとって必要なことを教えてください。
覚悟です。アーティストを大別すると、モノづくりのアーティストと、生き方としてのアーティストの2タイプいると思ってます。僕が大事だと思うのは後者。すべての人がアーティストになる資質はあるんだけど、アーティストとして人生を全うする覚悟は、なかなか持てない。言ってみれば子供たちにご飯を食べさせようとする母親の覚悟みたいなものです。覚悟が人間を作るんです。
覚悟が肝要なのですね。
最近思うのは、モノづくり側のアーティストは平和な時代に必要で、それに対し、生き方がアーティストな人は平和な時代に無用だということ。つまり今みたいな時代だからこそ、アーティストとして生きる覚悟を持った”アーティスト”が必要なんです。海外の作品がいいと感じることが多いんですが、彼らは生きるか死ぬかのギリギリのところで作品をつくったり、時代を変えなきゃいけないという覚悟の中で、作品を作っている人が多いと思うんです。日本でも覚悟をもってアーティスト活動をしなければいけないと思ってます。

良いものは良いと言える世界へ

現在、インドネシアのジョグジャカルタを拠点に、世界の展示にも数々の作品を発表する栗林さん。インドネシアのジョグジャカルタを拠点にするのは、日本という国を客観的に見たいからだという。そんなグローバルな視点を持って人に訴えかける作品を次々に制作する栗林さんに、これからの目標や夢についてお尋ねした。
やっぱり僕はアートを選んで生活しているので、そのアートが認められるのが理想です。今の業界はみんな本音で話さずギスギスしてるんです。本当はそうではなくて、みんなで力を合わせて良いもの作ればいいわけだし、良いものは良いと認められる社会になれば良いと思っています。
最後に、アーティストになりたいと思っている若者へ、一言いただけますか?
今度『アーティストという生き方を選ぶ』という授業をするんです。そこでも言う予定ですが、アーティストという言葉の見方がもう少し変わってくれると嬉しい。プロフェッショナルを育てたいんです。プロだという意識と覚悟があれば、もうアーティストだと思います。

ARTIST PROFILE

栗林隆さん

1968年長崎生まれ。武蔵野美術大学日本画学科卒業、デュッセルドルフ美術アカデミー、マイスターシュラー、アカデミーブリーフ取得。今年より母校である武蔵野美術大学日本画学科で客員教授に就任した。大型インスタレーション「ザンプランド」は十和田市現代美術館に恒久展示されている。


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